9月の伝道掲示板

死こそ生の意味を問うている

急がねばならない後生の一大事

 

 

   覚法寺だより 第25号

 

この夏は、各地で異常気象による様々な被害が出ています。被災、被害に遭われた皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。

 

9月を迎えたばかりですが、我が家には早々に来年の正月用のおせち料理の予約販売の案内が届きました。「エッ」というのが率直な思いです。これからお彼岸を迎え、11月に報恩講をお勤めさせていただき、その後で年末年始の準備に取り掛かるのが恒例となっているので、目を通す気にもなりません。先を見越して備えることも大切でしょうが、ことと次第に由ると思います。

 

私のいのちは、来年のいのちどころか明日のいのちすら確かではありません。今、この次の瞬間すらあてにはならないのです。とは言うものの実は、私も来月の島根の報恩講に戻るための航空券を既に購入していたり来年の法事を受けていたりしています。

 

 中国の善導大師は「人間怱々(そうそう)として衆務(しゅむ)を営み、年命(ねんみょう)の日夜に去ることを覚えず、灯の風中にありて滅することを期(ご)しがたきがごとし(往生礼讃日没無常偈)」(人間は毎日忙しく仕事に努め励み、自分の命がなくなってゆくことに気がつかない。ちょうど灯火が風の中でいつ消えるともしれないようなものである。)とお示しくださいました。

 

 私たちは、日々の暮らしの中で「」に「死」を意識しながら生きることは難しいようです。「今日、死ぬかもしれない。今、死ぬかもしれない。」と思いながら生きることはできないかもしれません。しかし「」に自身のこととして受け止めることは大切なことと思います。親鸞聖人は、「」とは「休む間もなく、絶え間なく」の意で「」は「折に触れ、縁に触れて持続して絶えない」こととして使い分けておられます。

 

阿弥陀様の「あなたが、いつ・どこで・どのようないのちの終え方をしようとも、必ず悟りの世界に生まれさせて、この上ない仏にする」とのご本願は、私たちの人生が単に「死」へ向かうものではなく「往生成仏」さらには「後を導く」という明確な意味と方向を与えてくださいます。そのことを蓮如上人は「早く後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏もうすべき」とおすすめくださいました。それは、いたずらに「死」を怖れ忌み嫌うことなく「恒」に「ご本願を仰ぎお念仏申す人生を歩んでくれよ」との願いに基づくものなのです。

                                           合掌

 

   平成26年9月1日